平成24年12月1日土曜日

盲目のコックさん


いま、写真を調整中)

1979年に生まれた、カリフォルニア(California) のアメリカ人ベトナム系のクリスティーンハ(Christine Hà)は実際のテレビコンテストの三回のマスターシェフの勝者です。見えない人がマスターシェフのプログラムに参加したのは彼女が初めてです。
ご両親がベトナム人で、ヒューストン市(Houston)、テキサス(Texas)に構える前に、小さいごろにレークウッド(Lakewood)かつカリフォルニア(California)かつロングビーチ(Long Beach)に住んでいました。2001年にテキサス大学から金融と情報システム管理という専門を卒業しました。しかし、視力が悪かったので、就職できませんでした。その後、ヒューストン大学で小説の専門を博士課程で勉強ました。身免疫性の混乱を名前のNeuromyelitis opticaと呼ばれる病気のため、クリスティーンさんは1999年から19歳に視力が落ちていて、2007年からほとんどなくなりました。
「私のインスピレーションのコックのは14歳に亡くなった母のこそです」と話していました。調理器とか原料を知って置ければ、クリスティーンさんは料理を作れました。それで、嗅覚と味覚でお湯が沸く音や、じゅうじゅうの葫をあける音といったことの通り、料理が熟れるか知っていました。

マスターシェフのコンテストにはホームコックの三万人がおり、カリフォルニアでリーグ決勝に百人しか選ばれません。クリスティーンさんはほかのホームコックの19人を乗り越えて、勝ちました。
ホームコックだけであり、マスターシェフプログラムに参加した理由なのは、単に普通な人のようになんかできると証明したことです。「人間が夢に心いれば、本当にその夢が追究できると証明したいです」と話していました。それで、クリスティーンさんはメディアがヘロインとした人を呼ばれたときに、びっくりを感じていました。コンテストの中継の間に、クリスティーンさんは個人チャレンジとチームチャレンジを勝ったのが合計6回で、一番優秀なホームコックのトップに位置しました。しかし、危ないリーグに落ちたのが2回でした。
クリスティーンさんの恩賞を収めたのは250000アメリカドルと自分の料理を本に出版するという契約です。自薦ラウンドの料理はベトナム風の煮魚、タイ風のパパヤサラダ、あばら肉とご飯、貝いため、ココナツアイスクリムなどが魚ソースなどのベトナム風の香辛料を使って、ベトナム風とアジア風の味を濃く持っていました。それらの料理は栄養バナンスがあるし、完壁に作られたとほめられました。名高いシェフのゴードンラムゼイ(Gordon Ramsay)のコンテストの考査がクリスティーンさんが自分のベトナム根元に乗じたと言いました。
2012年9月10日に勝った時、クリスティーンさんは「自分自身が勝ったのを信じられない。私にとって、マスターシェフ(Master Chef)に受けられたのは一生忘れられない経験だ、私はすべての努力と幸運で、困難を乗り越えて、ほかのアメリカの最も優秀なシェフに勝つことができた。私が今優勝を持って立っているのはあらゆる夢が現実になる証明だ」と感激的に発表しました。
by  トトロ

平成24年11月20日火曜日

先生の日 11月20日


毎年11月末になると、冷たい風が吹き始めます。まだ12月の厳しい寒さほどではないが、うすらを感じて、大切な日を思わせるにはちょうどいい寒さです。それは11月20日で、ベトナムの先生の日です。この日が来ると、私はほんとうに心の底から温かさを感じます。それはいままで私に教えたあらゆる先生の感情にほかなりません。今年、新しい先生がいて、もっと温かく感じられます。阿部先生です。

日本で働く機会を探すため、阿部先生が教えているクラスに参加している。しかし、勉強中、日本についての知識を教えてくれるほかに、先生が学習者の私たちに親切にして、関心するという気持ちを感じられる。私にとって忘れない記念は10月末に東京へ来たことです。先生が私のところに来て、一緒に夕食をたべてくれて、感動させました。それに、先生は「日本語を学んでサムライになろう!」という本の作者です。ベトナム人やベトナムのことが本当に好きではない人であれば、書けない本だと思います。
           今日、ベトナム先生の日、あるいはベトナムで教えている先生の日の機会に、阿部先生が今後たくさん良い会社員を育成できるということをお祈りいたします。それは先生たちにとって一番幸せなことだとおもいます。  
                                                                                                                俊英(n・t・anh)

平成24年11月18日日曜日

ベトナムのファン・ボイ・チャウ


浅羽左喜太郎とファン・ボイ・チャウとの物語から
浅羽左喜太郎とファン・ボイ・チャウとの交流についてのドラマを聞いた事がありますか。それは百年前の日本の医者の浅羽左喜太郎とベトナム独立運動の指導者のファン・ボイ・チャウとの感動的な友情です。でも、時間が立つにつれて、その友情は次の世代で忘れられてしまっています。

二十世紀始め、ベトナムはフランス政府の厳しい圧制に民衆は苦しんでいました。そんな時代に、ベトナム独立への志をもったファン・ボイ・チャウはベトナムを離れて日本へ行きました。そして数年後、ファンは青年達の日本留学運動である東遊運動の指導者になりました。最盛期には、200名に及ぶベトナム青年が日本で学んでいたと言われます。しかし、日仏協約が結ばれ、フランス政府から強い要請を受けた日本政府は、1908年の秋、ベトナム留学生に解散命令を出しました。多くの留学生は帰国しましたが、残った青年達を抱えたファンはお金がなくて生活は困窮を極めていました。

頼るところの無くなったファンは、日本人医師の浅羽左喜太郎に手紙を書きました。浅羽先生は以前に道端で行き倒れになっていた同志のベトナム青年を助けて、その留学手続きや学費の支払いまでしてくれたのです。朝に送った手紙が夕方には返って来ました。手紙には、「手元のお金を集めてとりあえず送ります。今後必要があれば遠慮なくお申しください。出来るだけのことをします。」当時の小学校の校長月給は18円だったそうですが、1700円という大金が添えられていました。簡潔であるが温情のある手紙に、ファンは涙しました。

浅羽先生の援助金で帰国したファンは、その九年後の1918年にまた日本へ行きました。でも、残念なことに大恩ある浅羽先生はすでに亡くなってしまいました。大恩に感謝の気持ちを伝えるため、ファンは浅羽先生の墓の前に記念碑を建てようと決意しました。しかし、懐中には120円しかなかったので建設費用が足りなかったのです。東浅羽の村長はファンの意図を知って村民を集めて、「村の皆で協力して建てよう」と演説しました。結局、村の協力のおかげで記念碑は完成しました。今でもこの記念碑は静岡県の東浅羽村に残っています。

皆さんはこの素晴らしい友情の物語をどう考えるでしょうか。
実はファンの故郷にある私の高校はファン・ボイ・チャウ高校です。私は入学式で初めてこの物話を聞いてすごく感動しました。その時には日本はどんな国か分からなかったのですが、浅羽という名前は私の記憶に残りました。日本人はとても優しい印象を持ちました。今、大学で日本語を勉強しています。日本人と交流する機会も実現できて、この印象はずっと変わりません。

浅羽先生とファンのドラマは感動的な日越交流の一例です。昔と今を比べると色々なことが違いますが、良好な日越関係は時代に流されることはありません。現在、日本とベトナムの関係は極めて良好ですから、今後これをいかに発展させていくかが私たちの課題です。

百年前ベトナム独立の道を求めるためにファンのような青年達は日本へ留学しました。現代のベトナムの若者も、国の発展のために日本へ留学して新しい東遊運動を起こしています。私自身も日本への留学を望んでいます。しかし、まだ留学できない私でも日本とベトナムの友情のために貢献できることがあると思います。私は学生ですから、まずは日本語の勉強を頑張らなければなりません。貿易大学の日本語クラブに参加したり、日本語能力を高める目的でVJCCで仕事をしました。

私は将来の自分をイメージして日本語を勉強する目的を見つけました。日経企業で働きたいと考えています。大切なことは自分の決意、自分の行動だと思います。日本語を勉強している私たちはだれでも、強い想いがあれば日本とベトナムとの友情を深める仕事に貢献することができます。

浅羽左喜太郎とファン・ボイ・チャウの物語から日本とベトナムとの友情について私の決意をお話ししました。そして、このようにスピーチを通じて皆さんに訴えることもその友好発展に貢献する一つの具体的な例だと思います。  
by  ハノイ貿易大学四年生 ホアイ

平成24年10月24日水曜日

日本の美しい食文化


長文の記事を載せましたが、写真がうまく出ないので、近日、詳しい人に修正してもらいます。

日本の美しい食文化

始めに
日本の食べ物について言えば、味はおいしく、繊細な盛りつけが特徴である。日本料理の代表として寿司、天ぷら、刺身など世界中で広く知られている。これらは日本の食文化としてだけでなく日本人の生き方も表している。日本料理の魅力に引き付けられ筆者は日本の食文化に関してその歴史と特徴を、詳しく調べたいと考えた。そして、日本の現代の食生活はどのように変化しているかについて少し眺めてみたいと思っている。
          I.     日本の食文化の歴史
·  野菜や豆腐などの進入
日本は島国なので、昔は日本人は魚介類をよく食べた。野菜はあったが、種類は今より少なかった。6世紀ぐらい、朝鮮と中国の食文化の影響を受け、日本人は大根、白菜、ニンジンを食べ始めた。その時は、日本料理の作り方はかなり簡単で、ただ焼き物、煮で物、生魚を食べる習慣だった。8世紀ごろ、日本人は中国人のように油で揚げ物を作り始めた。そして、大豆からたくさんの豆腐の種類を作り出した。15世紀には「日本製」の醤油は生まれた、現在の醤油の味に似ているそうだ。長い間中国の商人と商売することで、お茶も日本に入った。最初はお茶は薬とみなされたが、次第に日常の飲み物になってきた。それから、キュウリ、漬物、わさび、なす、など徐々に現れた。

·  精進料理と茶懐石の出現
1185年政府は鎌倉に移転した。ここは社寺に富んでおり、精進料理が作り始められた。精進料理は肉類、魚介類を用いず、穀物、野菜、豆腐など植物の材料だけで作る料理である。「精進」とは仏教用語で美食を戒め、粗食をし、精神修養をすると言う意味であった。仏教では「不殺生戒」を第一とし肉類を用いないことを原則としていることなので、肉類を使わない料理を精進料理と言うようになった。精進料理の影響を受け、茶懐石料理も現された。茶懐石はお茶を勧める前に出す簡単な料理である。基本はお茶懐石の献立は「一汁三菜(いちじゅうさんさい)」で、ご飯、汁、三菜品からなる献立である。

·  天ぷら、寿司や現代料理の紀元
中国と朝鮮以外には日本は多くの国と商売関係があった。そのため、日本に様々な野菜や肉の種類や新しい食事習慣が現れた。ポルトガル人はカポチャを持ってきた上に、パンや天ぷらの作り方も紹介した。その故、パンはもともとのポルトガル語は「パーォ」と発音された、日本に来て以来「パン」と呼ばれた。天ぷらは中国料理の揚げ物の作り方とポルトガル料理の作り方の結合だ。江戸時代(1603年-1857年)、日本では閉鎖時期になった。その頃、握り寿司が生まれ、寿司屋は人気になってきた。明治時代(1868年-1912年)になると、改革時代なので、閉鎖政策は破壊され、西洋から新しい風が吹いてきた。牛肉やミルク、チーズ、バーターのような乳製品は次第に日常の食生活になっていった。洋風の食べ物は日本人に受け取られた。お茶と同時にコーヒーもよく飲まれた。カレーライス、アイスクリーム、ケーキ、苺、トマト、などは日本人の食事の献立には入られていた。
(石川・江原・東四(2009))参考
        II.     日本の食文化の特徴
·  日本料理はすべての感覚で感じられる
 和食を食べる際、味だけでなく料理の盛り方も、食器も、料理の名前も人の注目を引き付けるものだ。食器から見ても、日本ならではの料理だと分かる。食器は様々な形で、材質は漆器、陶器、磁器、竹などである。それに、和食の料理は心が込められ、繊細な指でしか作られない傑作だ。日本人には「三五」と言う観念がある。これは「五味」、「五色」,「五法」である。「五味」とは甘い、酸っぱい、苦い、辛い、塩辛いという味覚であり、「五色」とは白、黄色、赤、緑、黒という色彩である。「五法」は生物、煮物、揚げ物、焼き物、蒸し物という調理法である。このように、日本人はいつも料理を作る時、料理の見た目と料理の作り方に細かくこだわる。

·  日本料理は多くの国の料理の影響を受けた
 日本人は様々な国の食文化の影響を受けたり、自分の味に合うために変化させたりすることで、伝統和食以外にも、豊かな料理の世界を作った。まず、「メン」は本来は中国のものだが、日本に来て以来多くの新しいメンの種類ができた。主なのはラーメン、蕎麦(そば)、饂飩(うどん)である。1500年にはそばが現れた。そばも様々な種類がある。蒸そばの作り方は簡単であるから、朝食として食べられていた。他は盛りそば、(そばを煮でてから、冷やし、つゆをつけて食べる)。種物(たねもの)はそばか饂飩(うどん)の上に油揚げと天ぷら、野菜を盛り、暖かい汁そば又は汁うどんを入れるものである。
1910年、ラーメンは中国から来た。初めは「中華そば」と呼ばれ、簡単な材料から作られた。現在は多くのラーメンの種類が知られている。ほとんどのラーメンには少し醤油の味があり、長ネギ、肉、竹の子も入っているが、日本のラーメン店は中華ラーメン店の料理の味と作り方等は全く違う。私は「王将」と言う人気がある中華料理店でラーメンを食べたことがある。しかし、その店でのラーメンは日本のラーメン店のものとは全く同じではない。
ラーメンだけでなく、中国から伝わったギョーザや豚マンなども現在の日本にはあふれている食べ物である。
中国からの影響に加えて、日本ではインドのカーレライス、イタリアのパスタ等も日本風に味と材料を少し変化させている。そのため、日本料理はどんどん豊富になっていく。

·  日本料理は地方によって違う
 日本は北から南にかけて、天候や習慣が違うので、食べ物の味は様々である。
一番違うのは関東の料理と関西の料理である。まずは醤油について言えば、全く同じではない。関東の醤油は色が黒く、味は濃い口だ。しかし、関西の醤油は色が茶色、薄口で、少し甘い。又、関東の味噌は色が濃く味も濃い。関西の味噌は色が薄く味は甘い。次は餅だ。関東では、餅は四角い形をしているのに対して、関西の餅は円い形である。そして、お雑煮を作る際、関東人は餅をそのまま煮るので柔らかく、醤油を入れるので、醤油の味だ。しかし、関西人は餅を少し焼き、京都などでは白味噌を入れる。そのため、餅は白味噌の味がある。その他、ほとんどの関東の人は中濃ソースを使っているのに対して、関西には様々なソースの種類がある。例えば、たこ焼きソース、お好み焼きソース、豚カツソース、ウスターソース等である。
違うだけでなく、どんな地方でも、特別な「美味いもん」があり、それぞれ名物として誇りにしているようだ。北海道の乳製品は一番人気があり、好んで買われる。関西の食べ物なら、たこ焼きとお好み焼きは全国で有名だ。一方、関東人にとって欠かせない食べ物は納豆である。京都の宇治では抹茶から作られるケーキや餅等が非常に好評である。室町末期、ポルトガル人が長崎にカステラの作り方を伝え、カステラは日本で初めて作られた洋風のケーキである。現在はカステラは全国では広がるが、長崎のチーズカステラや蜂蜜カステラ、チョコレートカステラ、コーヒーカステラ等は一番評判が良い。

·  天気や行事によって、特別な料理がある
平安時代から、新年には、日本人は御節料理を作り、食べる習慣がある。おせち料理を作るために手間がかかるが、一年で一回しかないので、心を込めて食べ物を支度する。料理は重箱に入れられる。面白いことはそれぞれの料理は意味を持っている。数の子は魚の卵のように子孫が多い、田作りは良い収穫、昆布はいつも喜ぶ、黒豆は元気で真面目に働く、エビは長く生きること、一つの食べ物は一つの願いを象徴する。それから、節分の日、恵方巻き寿司をその年の恵方を向いて食べる習慣が昔から続いてきた。桜の季節になると、桜の葉っぱと汁で作られる桜餅をよく食べる。桜の花びらのようなピンク色で、自然の香りがし、手で軽く触れたらもちもちした感じである。それに加え、お茶と鑑賞すると、すっきりした気持ちである。お正月と春は日本人にとって、非常に大切な時期なので、その時期向けの食べ物を作り出す。
 厚い夏の日差しには、ばてないように日本人はうなぎ焼きを食べる。うなぎは栄養がたっぷりのため、夏になると、皆は必ずうなぎ焼きを食べる。うなぎは形が怖いが、焼いた後、いいにおいがしたり、味も甘い。食べる時は、うなぎはご飯にのせ、漬物と食べる。私はベトナムで一回食べたことがあり、とてもおいしかったが、日本にいるうちに食べてみたいと思っている。
 夏のまぶしい日差しの日々が過ぎ、紅葉の季節が来る。八月十五夜と九月十三日の明るい月を見ながら、「月見団子」を食べる。
 冬の寒さには暖かい「鍋」を食べたら世の中には何も要らないと言われる。「鍋」あるいは「鍋物」は日本独自の誇るべき食文化の一つであると考えている。日本人は一般に「鍋」と言って、表現する料理はスープを入れた鍋を食卓の焜炉(こんろ)の上に置いて点火し、その中に肉類、魚介類、野菜類、穀類、さまざまな材料を入れ、四方から囲んで食べるスタイルの料理を示す。同じ鍋に各自が箸を入れて食べることはあたかも一緒に食べる者たちを精神的に結びつける行為として、家族の団欒や結束を象徴するかのようだ。「ハレ」[1]の料理である「焼き物」に対して、「鍋」は「ケ」[2]の日常的な料理であり、確かに平凡だが安穏な家庭生活を表す意味だ。もう一つは、大晦日の夜は日本人は旧年を越して新年を迎えるために「年越しそば」を食べる習慣がある。

·  日本のお弁当文化
 日本のお弁当のきれいで面白い盛り方は世界中に知られている。日本人は会社や学校にお弁当を持っていくことは珍しいことではない。昔のお弁当の中によく見られる食べ物は梅干だが、最近ソーセージから作られる「たこさん」、卵焼き、揚げ物、野菜などが入っている。お弁当は作る人の食べる人に対する関心や感情を表す方法だと思われる。それで、日本人のお母さんあるいは奥さんにとっては、子供と主人のために毎朝早めに起き、心を込め、栄養のたっぷりで、綺麗なお弁当を作ることは幸せだ。お弁当は多くの種類がある:幕の内弁当(梅干、焼きざけ、卵焼きの伝統的な弁当)、駅弁(駅売り弁当の略)、鳥弁当(群馬県で人気がある鶏とソースの弁当)、寿司詰めなど。

      III.     伝統的な和風の食べ物、日本の誇り
日本ならではの和風料理は数え切れないほど多い。例えば:茶碗蒸し、刺身、納豆、ぜんざい、漬物、お茶漬け、天ぷら...様々である。しかし、私にとって、一番印象深いのは和菓子である。
·  和菓子
 和菓子は日本で一番初めに現れたお菓子である。和菓子は餅米、小豆、穀物、果物などのような天然材料から作られた物だという。弥生(やよい)時代から、最初の和菓子が生まれた。奈良時代(710年-784年)中国のお餅の作り方の影響を受け、餅と団子を作り出した。室町時代(1336年-1573年)、ポルトガル人と商売することで、砂糖のような様々な新しい材料が輸入された。特に、日本風のカステラとどら焼きが生まれた。江戸時代(1603年-1867年)、和菓子が広く知られていき、茶道会やお土産として扱われるようになった。大正時代(1912年-1926年)「和菓子」は正式な名称がつけられた。様々な外来文化に影響されても、和菓子は日本の伝統的な美しさを持っている。



 和菓子は芸術なので、和菓子は味だけでなく、すべての五感で鑑賞できる。和菓子の形は天然にある物に基づいて作られるので、天然の美さを持っている。色も新鮮であり、形も生き生きしている。和菓子は自然の材料から作られるので、自然の味も感じられ、甘みが優しく、涼しい気がする。手で触ると、柔らかく、ふわふわであり、心地良く感じる。和菓子は小豆、栗、などの天然植物の香りがある。それに加え、和菓子は多くの種類があり、それぞれ自然、季節、詩歌を基にして、名前が付けられた。例えば「桜餅」、「夕焼け」、「秋の風」、「紅葉狩り」。和菓子の含む水量によって、三つの種類に分かれる。生菓子(一番水量が多いもの)、半生菓子、そして干菓子である(一番水量が少ないもの)。

和菓子の種類 
                           (中山桂子(2006))参照

  季節や天気が変わるとともに、和菓子の形、色、材料も変わる。春になると、桜の満開時期には、桜のように明るいピンク色を持ち、花びらのように柔らかい「桜餅」。「桜餅」以外は「花見団子」、「花びら餅」も人気がある。暑い夏には、冷たい羊羹(ようかん)を食べたら、気持ちがすっきりするはずである。秋になると、和菓子は紅葉の形で、黄色あるいは赤色で作られる。特に、秋向けの和菓子はよく栗が入っている。秋の和菓子の代表としては「栗饅頭」、「紅葉狩り」。冬なら、雪や松の木などのような形をする和菓子があふれる。例えば「松の雪」である。

       IV.     現代の食生活の風潮
ファストフードの時代
社会の近代化につれて日本人の生活や食生活は変わりつつある。米や魚以外にも、新しい食べ物に人気が集まっている。私の驚いたことは、日本ではこんなに多くのファストフード店があることである。若者やサラリーマン向けだけでなく、大人や年上の人にも人気があるらしい。私の国ではKFCやロッテリアなどのファストフード店はただ学生と若者が集まり、しゃべる所である。しかし、日本では、一番人気があるのはアメリカのマクドナルド。誰にも、どこに行っても手軽にマクドナルドのハンバーグやフライドポテトなどが食べられる。ほかにもミスタードナッツやスターバックスコーヒーなども日本人の生活には欠かせないものになってきた。

現代化された伝統的な料理
日本人が誇りに思う寿司は、最近では海産物から作られるばかりでなく、様々な材料から作られるようになった。例えばアボカド海老寿司、生ハム寿司、焼き牛肉寿司などが生まれた。カッパ寿司、スシロー、クラ寿司のような回転寿司チェーンが日本人にも外国人にも非常に人気がある。他の寿司屋に比べて、回転寿司屋は値段が安い、一枚の寿司皿は一律105円である。そのため、回転寿司は家族や会社の同僚や学生等にも頻繁に食事をするのに適切な所だと思われている。回転寿司屋はいいサービスで、ハイテクの機械が使われているので、顧客を待たせる時間はあまり長くなく、食べ物の新鮮さが保たれることも優れた点だという。

家での食事
日本人はどんなに忙しくても、食事のことは決して怠らず、いつも細かくこだわる習慣がある。特にお母さんたちはいつも子供と主人のために栄養たっぷりの献立を工夫している。それゆえ、食事のメニューは多彩で豊富な料理がある。カレーライスやハヤシライスやパスタ、ハンバーガーなどの洋風料理から、餃子、シュウマイなどの中華料理まで食べられている。さらに、お母さんたちは日本料理と外国料理の作りかたを合わせ、新しい食べ物を発見した。私のホームステイ先のお母さんは中華麺とうどんを材料として、お好み焼きの作り方で新しいお好み焼きができ、次第に、醤油パスタ、天ぷらおにぎりなども生まれた。日本人の家での食事は和風の料理と外国の料理が共存しており、配合することが新しい食文化の前提になる。


終わりに
それぞれの国々には、独自の特徴的な文化がある。そのような文化は人々の習慣や生活に表われる。日本の場合は、多くの美しい伝統的な文化が昔から伝えられ、時代が変わるとともに文化も次第に新しくなる。食文化もこの軌道上にある。
外国人と貿易関係を結ぶことをきっかけとして、日本の食生活はかなり外国の食生活の影響を受け、豊富になってきたわけである。受け取りながら、日本人は日本ならではの食文化も創造できた。そのため、抹茶ケーキ、抹茶お菓子や天ぷら、寿司等は日本の姿勢を象徴するものである。

参考文献
江原絢子・石川尚子・東四柳祥子『日本食物史』、吉川弘分館、2009
中山圭子『和菓子の世界事典』、岩波書店、2006
玉村豊男「鍋」『日本を知る105章』

 by  ハノイ貿易大学四年生 ひまわり



[1] 「ハレ」は非日常で、特別な時を表す言葉。(晴れも書かれる)
[2] 「ケ」は日常で、普通な時を表す言葉。